弥生研究所

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解説『ハイペリオン』学者の物語

ハイペリオンの6つの物語のうち、四つめの学者の物語について紹介、解説します。学者の物語は、これまでの三篇とは違って、 涙なしには読むことのできない、感傷的なストーリーが特徴です。

前回の物語はこちら。

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学者の物語:忘却の川の水は苦く

 巡礼者の名は、ソル・ワイントラウブ。彼がその腕に抱く赤子は、娘のレイチェル。レイチェルが生まれたとき、ソルは二十七歳、妻のサライは二十九歳であった。ソルとサライが生まれ育ったのはバーナード・ワールドという星だった。この星は、史上二番目となる太陽系外の開拓星でありながら、学問と農業以外に何もない星だった。そんな星に二人とも不満を抱くこともなく、ただ自然に出会い、恋愛し、結婚し、そしてレイチェルが生まれた。レイチェルは、子供の頃から目を見張る存在だった。母親譲りの豊かな感受性、そして父親譲りの深い知性。児童心理学者だったある友人は、旺盛な好奇心、他人に対する共感、情の深さ、公平な精神などが、すべてそろっていると五歳のレイチェルを評した。レイチェルは完ぺきだったが、それでいて薄気味悪い存在ではなかった。レイチェルは誰にとってもかわいらしい子供だった。

 レイチェルは優秀な成績で高校を卒業した。ニューアースのハーバード大学から奨学金の申し入れがあるほどだったが、レイチェルは両親の母校であるナイテンヘルザ―大学へ進学した。娘が考古学を専攻したことは、ソルにとって全く驚きではなかった。レイチェルは二歳の頃から土に埋まっているものを掘り返しては、根掘り葉掘り質問をしたものである。レイチェルは在学中に学位を取得し、フリーホームのライヒス大学に留学した。二年以上に及ぶ留学からようやく娘が母星に帰ってきたとき、ソルとサライは世の中に色彩が戻ってきたように感じたものだった。レイチェルはあるとき言った。「おとうさんは神を信じる?」 ソルは答えた。「信じられる日が来るのを待っているんだよ」 レイチェルのフィールドワークの対象はバーナード・ワールドからどんどん離れていった。二人には分かっていた。やがて、残された者の命と、思い出をむさぼり食らうほどの航時差に隔てられた、僻遠の地にレイチェルが行ってしまうことに。

 レイチェルがハイペリオンへ調査に行くことが決定しても、二人はいたって平静を務めた。ハイペリオンへの片道は四年、少なくとも往復八年に渡ってレイチェルに会えないのだ。しかも、その間はレイチェル本人にとってみれば冷温睡眠下の数週間でしかない。レイチェルが旅立ってから二人は多忙を極めた。そして五年がたったころ、ソルは人生を変える夢を見る。夢はこうだ。気付くとソルは巨大な建物の内部をさ迷い歩いている。休憩しようと足を止めると、後方から燃え盛るような轟音が聞こえ、前方には赤い光を放つ目が暗闇の中に浮き上がる。そして、大音声が響き渡るのだ。「ソルよ! レイチェルを伴ってハイペリオンへ行き、レイチェルを生贄に捧げよ」 ソルは拒絶するが、大声の主はいつまでもしつこく、ソルの夢が覚めるまでその言葉を繰り返すのであった。

 ソルがそんな夢を見たとき、レイチェルもまた人生を変える異常に遭遇していた。ハイペリオンでの研究生活は一年が経とうとしていたが、<時間の墓標>に関するめぼしい成果は上がらなかった。調査期間も残り三週間となったころ、レイチェルは夜半に目を覚まし、眠っている恋人のメリオ・アルンデスをキャンプに残して<時間の墓標>へ向かった。もはや日常ともいえる自然さで<スフィンクス>の内部へと入る。最下層の玄室は既に調査隊の生活臭すらにじみ出ていた。その中で静寂を味わううちにレイチェルはウトウトしていた。だしぬけにコムログの警報が鳴り響いた。飛び起きたレイチェルはセンサーの異常値を記録していく。すると、頭上から足を引きずるような音が聞こえた。つかの間、すべての照明がふっと消えた。おかしい。通路に配された照明は生体発光だから電源は必要ない。自身の懐中電灯のスイッチを入れてもやはり光らなかった。パニックを抑え込んで、レイチェルは暗闇の中を手探りに進むが、とたんに何かが髪に触れ、息を呑んだレイチェルは片手を頭上に上げた。天井が下りてきている。さっきから聞こえる石のこすれる音は、下がってくる天井と壁がこすれる音だったのだ。いや、それだけではない。何かが、金属のこすれるような音と共に、なにかが近づいてくる。鋭く、ぞっとするほど冷たいものに手首をつかまれたとき、レイチェルはついに悲鳴をあげた。

 ソルとサライにとってレイチェルとの再会は想像だにしない最悪のケースだった。レイチェルは昏睡しており、医師の言葉によれば年齢遡行(マーリン)症、つまり通常の速度で歳をとっているが、若返っているのだという。まもなく意識の戻ったレイチェルは、二人が知るレイチェルと何も変わりがなかった。しかし、レイチェルの記憶は、毎日眠るたびに一日づつ失われていった。レイチェルは気丈にも明日の自分宛に音声データを残したが、それは明日の自分に対する言わば死刑宣告に過ぎなかった。何日かその苦行を続けたのち、ついにソルは、前日の夜に娘から受け取った音声データを、翌日の朝の娘に渡すのを止めた。医学は何の役にも立たなかった。時間がたつにつれ、レイチェルの記憶と現実はどんどんかけ離れていった。レイチェルの記憶の中の両親は若返っていくが、現実の両親は年老いていくのだ。やがて、レイチェルは記憶だけでなく、体も小さくなっていった。ソルとサライは、ライヒス大学の援助を受けて、バサートシティで限定的なパウルセン(延齢)処置を受けた。レイチェルの記憶の中の両親の姿に、少しでも近づくためだった。しかし、レイチェルはレイチェルで、幼くなるほど自身の記憶と現実の齟齬に違和感を感じないようになっていった。レイチェルの性格は健気にも、毎日あたらしい友達を作ることを苦としなかった。

 その間、ソルは例の夢を度々見た。やがて、ソルは、その夢を介して自分の潜在意識が何かを伝えたがっているのではないかと考えるようになり、夢はついに対話となっていた。あるときサライが言い出した。あの子をハイペリオンに連れていくべきだと。ソルは同じ夢をサライもまた見ていたことを知る。そして二人の夢は完全に同じではないことも。あの夢は自分の潜在意識だけのものではなかった。しかし、ソルにはレイチェルを生贄に捧げるつもりなどなかった。サライは続ける。生贄に捧げるのはレイチェルではなく、私たち自らなのだと。それでもソルにはハイペリオンへ行く決心がつかなった。ソルがハイペリオンへ行く決心のきっかけは、サライの死だった。気を詰めたサライを少しでも楽にさせようと、サライに姉のテサを訪ねさせたのが、運命の分かれ道だった。サライとテサを乗せた EMV が事故に遭ったのだ。夫婦のどちらもレイチェルが生まれてくる先のことまで考える余裕はなかった。ソルは、自分とレイチェルが二人で取り残される日がこようとは夢にも思わなかった。四歳のレイチェルにはまだ、母親の死を理解できたが、葬儀を終えてからはソルはもう母親の死を説明しなかった。

 ソルはレイチェルを抱いて<ウェブ>中を駆け回り、ハイペリオン渡航するありとあらゆる努力をした。マスコミの無邪気な好奇心にはさんざんな目に遭ったものだが、ことハイペリオンへの渡航ビザを渋る連邦に対してはマスコミの力が発揮した。ハイペリオンへの航海の第一段階は、パールヴァティーへの旅だった。燬光艦HS<イントレピット>は、ハイペリオンへ向かう聖樹船<イグドラシル>へ二人を送るために、パールヴァティーへ航行中なのだ。ソルは不快なホーキング効果を耐えて、生後七週間の娘に微笑みかけた。娘も微笑みを返してきた。それがレイチェルの最後の、そして最初のほほえみだった。

解説

イサクの燔祭、という旧約聖書の逸話を知ると、学者の物語がそのままイサクの燔祭をなぞっていることが分かります。浅はかな知識ではありますが、まずイサクの燔祭について説明します。

アブラハムとサラの夫妻は不妊ゆえに子供がなく、既に老齢となっていましたが、図らずもイサクと名づける息子を授かります。しかし、神はイサクを生贄に捧げよとアブラハムに告げます。アブラハムは神に告げられた場所にイサクを連れていきます。そしてイサクを手に掛けようとしたその瞬間、神の使いが現れてアブラハムを止めたのです。アブラハムは代わりに羊を生贄に捧げました。

この逸話はキリスト教圏では有名なもので、数多くの画家が、そのシーンを描いています。

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逸話は、アブラハムとイサクの心情を描写せず、ただ淡々と出来事を説明するだけです。イサクを生贄に捧げよというお告げは、ソルが夢に見たレイチェルを生贄に捧げよという内容と同じです。ソルとサライは若くしてレイチェルを設けましたが、レイチェルが二回目に生まれる頃(つまり消滅するころ)には、アブラハムとサラのように老齢になっています(サライは亡くなってしまいますが)。この物語の解釈の一つに、神はアブラハムの信仰心を試したというものがあります。そこで、ソルは自問するのです。もしアブラハムの神に対する愛よりも、息子に対する愛のほうが勝っていたら、どうなっていただろうかと。ソルは、ユダヤ系の出自を持ちながら、自身の信仰心に疑問を持っていました。レイチェルからの「神を信じるか」という率直な質問に対して、ソルは「信じられる日が来るのを待っている」と答えます。そして、この逸話にはもう一つの解釈があります。それが人は同胞を生贄にしてはならないということです。ソルは自身も娘も生贄にしない覚悟でハイペリオンへ向かいます。そこで夢の声の主は何をするのか見届けようというのです。

夢の中の声の存在について、ソルはシュライクだと推定している節があります。サライはその存在をゴーレムと呼び、<スフィンクス>の内部でレイチェルの手首をつかんだ存在もまたゴーレムだと言っています。サライは、現実のレイチェルすら覚えていない<スフィンクス>内部の出来事を、夢の中でレイチェルから聞いたと言っています。ソルとサライが見た夢は、自身の精神が生み出したものではなく、第三者のメッセージであることは明らかです。

学者の物語が投げかける謎は、なぜシュライクは、レイチェルの年齢を遡行させたのか。そして、なぜレイチェルをハイペリオンへ連れて行かせるのかということです。

それにしても、ここまでストレートに人を泣かせに来る話は、そうそう読んだことがありません。若返っていくというありえない悲劇は、未だに新鮮さを失いません。ソルと サライとレイチェルの人間性に触れるたび、その尊さに涙が出てきます。六つの物語のうち、最も読むのが辛い物語でもあります。

続く。

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