弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

吉川英治記念館に行ってきた

三月、天気の良い某日。片道に費やすことおよそ二時間強、青梅のさらに奥、二俣尾まで足を延ばし、吉川英治記念館に行ってきました。

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読書、吉川英治との出会い

私は読書を趣味としています。このブログでも一つのおおきなカテゴリとして分類している程度には読書をしています。ただ、決して速読の類ではなく、むしろ遅読のほうです。

私の母は読書家でした。私が幼いころ、母は図書館で児童書を借りてきては私に勧めました。私は決して本を読むことに積極的ではなく、むしろTVゲームなどに夢中でしたが、母が進める本の中には面白い本がいくつかありました。印象的なのは、エルマーの冒険、ズッコケ三人組シリーズ、怪人二十面相ロビンソン・クルーソー、などでしょうか。しかし、自分から能動的に読書をするようになった中学生くらいからは、専ら歴史小説に傾倒しました。そのきっかけが、吉川英治の『三国志』でした。もともと三国志を知ったのは横山光輝の漫画でした。これは、母が学校のバザーか何かでコミック10巻分くらいを、しかも飛び飛びで買ってきたのが始まりでした。これが、当時小学生であった私の心の琴線に触れたのです。ですが、横山光輝の漫画は60巻ある長大なもので、小学生の私には全巻買い揃えるのは、お金も必要でしたが、なによりも根気が必要でした。当時はアマゾンなんてブラジルにしかありませんでしたからね。ブックオフに行っても欲しい巻がないことは普通でした。そうこうしているうちに、移り気な小学生の心は、TVゲームなどに移り、三国志のことなどはすっかり忘れてしまうのです。

どんなきっかけだったか、もはや覚えていないのですが、再び三国志と出会うのは中学生の時でした。漫画で得ていた断片的な知識の基礎に、すーっと三国志の世界観が浸透し、好奇心の赴くままにむさぼるように読んだのを覚えています。それからは、吉川英治ばかりを読み進めました。私のお気に入りは、三国志宮本武蔵、新平家物語です。吉川英治は、私の中二病の一部といってもいいかもしれません。吉川英治のほとんどを読破するようになると、司馬遼太郎藤沢周平山岡荘八など、一時期は歴史小説ばかりを読んでいました。この傾向は大学を卒業するころまで続きました。ところが、これだけ吉川英治に傾倒した時期を持ちながら、吉川英治記念館なるものがあることを、ついぞ最近まで知りませんでした。記念館の存在を知ったのはこんな記事でした。

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どこでどんな情報と出会うか分かりません。なんと、吉川英治記念館は2019年の3月をもって閉館するというではありませんか。前置きが長くなりました。今でも、三国志が好きな私は、その後、北方健三、宮城谷正光、そして正史と、『三国志』を渡り歩いて楽しんできて、その原点が吉川英治であったことを思い出したのです。

吉川英治記念館

記念館の場所は、青梅線青梅駅から、さらに4駅先の二俣尾を降りて徒歩15分、青梅市柚木町というところです。 青梅は初めて行きましたが、都心からだとやはり遠いです。 立川を越えると、徐々に都心感は薄れ、青梅まで来ると、自然の山並みが迫ってきます。

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多摩川上流

橋の上から撮った写真ですが、下を流れるのは多摩川です。 多摩川もここまで上流に来ると印象が全然違いますね。

吉川英治記念館は、吉川英治が晩年に暮らした母屋と、その庭に併設された記念館からなっています。 母屋はさすが文豪と言えるような立派な建物で、残念ながら中に上がることはできませんでしたが、縁側越しにその様子を見学することはできました。

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母屋の外観

また、庭も立派です。

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何の木だろう?

こういった書院造の和風建築は良いですね。私は、こういった縁側のある家に住んでみたいというあこがれがあります。 書院造の邸宅として、思い出すのが山本亭です。 私は、実家が葛飾区にあるので、年末年始などは初詣の休憩がてらに山本亭に寄ったりします。柴又帝釈天に行く機会がありましたら、山本亭もぜひ寄ってみてください。

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家庭人としての吉川英治

記念館では、吉川英治にまつわる資料が展示されています。

私は、これまで吉川英治の作品こそ読んで知ってきましたが、吉川英治という人そのものに興味を注いだことがありませんでした。吉川英治が、どこで生まれ、どのように生き、作品を残したか。そういった作品が生まれる背景というものを全く知りませんでした。そのため、記念館にある吉川英治の記録は私にとっては新鮮なものでした。

特に印象深いのは写真でした。家族と映る吉川英治の写真からは、今までは文豪という無機質なだけの存在から、一人の人間の存在を感じました。吉川英治は一度離婚をしています。一人目の妻をやす、二人目の妻を文子といいます。二回目の結婚のとき、吉川英治は45歳で、文子は16歳でしたから、今でも驚かれるような歳の差婚でした。やすとの間には養女が一人、文子との間には二男二女をもうけ、その家族写真が多く残っているのですね。

また、吉川英治は母を愛する人でした。恋人や妻に対しても、この世で最も愛する女性は母だと言ってはばからなかったと言います。吉川英治は俳句も多く残しており、その中には母への愛を詠んだものが多くあります。印象深い一句を紹介します。

母あらばなど想う日の梅うらら

青梅は、その地名の通り、梅が多く咲く土地です。一時期、ウイルスによって多くが伐採されましたが、いまでも青梅の梅まつりは有名ですね。残念ながら吉川英治邸で梅を見ることはできませんが、吉川英治が健在のころは梅もまた健在だったのだと思います。綺麗な梅の花を見て、その情緒を母と共有できないさみしさが込められていると、私は解釈しています。

母を想う句は、それ以外にも多く残されています。

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吉川英治の母に対する愛情は、彼の人間性の特徴でもあります。しかし、人は本質的に母への愛情を強く持っているものだと思います。宗教家であり詩人であった、暁烏敏(あけがらすはや)はこう言っています。

十億の人に十億の母あらねども、わが母にまさる母ありなむや

私はこの詩を思い出すたびに、感情が高ぶります。この詩のすごいところは、私の心にぴったりとはまり強い共感を呼び起こすだけでなく、誰の心にもぴったりとはまり強い共感を呼び起こすところです。自分の母が一番だと主張しながらも、決して他人の母と比較するものではありません。きっとこの詩は、吉川英治の母に対する思いとも、ぴったり一致するものだと思います。インターネット文化の中では2ちゃんねる発祥のカーチャンがありますね(↓これ)。

J( 'ー`)し

時代や文化が変わっても、愛し愛される母という偉大な存在。すごすぎる。

吉川英治の父、直広は、元々は小田原藩士で、後に会社経営を行いました。しかし、人間関係に軋轢を起こしやすい性格だったようで、家運は傾きます。吉川英治との関係も一時は悪化しました。吉川英治の幼少期は決して裕福ではなく、むしろ貧乏でした。母のイクはそんな厳しい環境でも、愛情深く強い人だったようです。イクは吉川英治が、29歳のときに亡くなり、直広はさらに前に亡くなっています。吉川英治が文学界で名をはせるのは、その後のことですから、二人とも吉川英治の活躍を見ることなく亡くなったことになります。そのような人生の経緯の中に、吉川英治の母への強い愛情の源泉があるように思います。

そういえば、吉川英治の代表作である三国志の冒頭は、筵(むしろ)を売って糊口をしのぐ貧しい環境の劉備が、母のために高級品である茶を買い求める場面から始まります。吉川英治は、自分の若いころの境遇を劉備に投影し、母への思いを劉備に表現させたのかもしれません。三国志の冒頭が、吉川英治の人生と共鳴していることに気付くと、物語がいっそう感慨深く味わえます。

おわりに

さて、前述の通り、吉川英治記念館は、2019年3月20日を最後に閉館となりました。私は、吉川英治に対する一抹の情熱を持っていたがゆえに、閉館前に見学しておこうと思い立つに至りました。そこでは、思いがけず、吉川英治の母への愛情に触れることになり、私自身の母への愛情を認識することになりました。同じく、吉川英治記念館を訪れた人はどんな感想を持ったのでしょうか。